はじまりの話
何か目的があってここに来たはずだった。
きみは、深い森の中、河にひとり立っている。
ぼんやりとした葉擦れの音。
遠くで鳴く鳥の声がこだまする。
きみの足を浸しているのは、つめたく、透明な河だ。気泡。うねり。
すりガラスのような水面がシャワシャワと音を立て、水底が揺らめいている。
きみは正面を仰ぎ見る。滝だ。
神殿のように積み上がった苔生す岩の間から、滝が放たれている。それはひとつの啓示のようだった。轟音と飛沫、そしてつめたい風。
カミがいる、ときみは思う。
ここにはカミがいる。滝のことではない。岩のことでもない。この空間、つまり私が立っているこの河と岩と森と滝を包む空間、及びその流れ。
そこに、カミはいるのだった。
きみは、滝の立てる轟音の静寂にしばし耳を澄ませる。
視線。
・・・・・・・・・
何かに見られている?
いきなり空気が張り詰め、きみは本能的に後ろを振り返る。身体が緊張でこわばり、心臓が音を立てて拍動する。身体に汗が滲んでいる。
鹿がこちらを見ている。
きみの立っている河、その下流に鹿が佇んでいる。大きな岩の上に立ってこちらを見下ろしている。見ている。見ている。見ている。
・・・・・・・・・・
品定めされているのだ。
それはとてつもない緊張感だった。視線。汗が背中を伝う。視線。胃の底が鉛のように均質になり、鈍く沈んでいく。視線。熱くなった頭はぼんやりとして、対峙している時間は永遠に思えた。
けたたましい鳴き声できみは我に返る。
なにかが、大きな大きな翼を慌ただしくはためかせて木々の間から飛び出してくる。あれはなんだ、黒い鳥か?
それは大きく二度羽を振るうと、水面に降り立つ。もったいぶるような動きだった。
あっけに取られていたきみは、ハッと鹿のいたほうを振り返る。
鹿の姿は消えていた。
どこへ行った?きみはあたりを見回す。
と、
「無駄だよ」
耳元で誰かに囁かれたような感触にきみはとびのく。全身が総毛立つ。あたりを見渡す。
ただ鳥だけがこちらを見ていた。他には誰もいない。まさか、お前か?きみは訝しむ。
「お前には、まだ資格がないのさ」
「お前は嘘をついているからね」
予想通り鳥が言葉を継ぐ。なんだ、これは?
鳥は変わらずこちらを見据えている。その顔には、縦長の目が一つだけついていた。同心円の目。まるでこちらに問いかけるように鳥は見つめている。こわい。こわい。きみの背中を汗がつたう。
「嘘というのは何の話だ」
きみは鳥に問う。声が少し震えた。
「俺は嘘などついていない」
嘘なんてついた覚えがなかった。
ただ、どこかで鳥の言うことが正しいという予感もしていた。
「これでもかい?」
そう言うが早いか、鳥はいきなり飛び立ちこちらへ向かってくる。風を切ってこちらに迫ってきた鳥は、翼をはためかせ、大きく、大きく広げる。夜に包まれるようだ、そんなことを思う暇もなく、きみは翼に包まれる。
きみは目を覚ます。
ここはどこだ?
暗い。
どうやらそこは部屋のようだった。
慣れない視界の中できみは考える。俺は鳥に襲われたはずだったが、ここは鳥の中なのか?あるいはどこかに連れ去られたのだろうか?
分からなかった。思考は空回る。
こういうことは考えてどうにかなるものではない。
とにかく、光を頼りに進むしかないのだ。
そう思い決め、きみは光の元へ這って行く。
それは鍵穴だった。扉か?しかしドアノブはない。
鍵穴だけあってドアノブがないだって?仕方がない。きみは、恐る恐る鍵穴を覗いてみる。
それは、わけのわからないものだらけの部屋だった。古代と思しきものから中世、近代のもの、あらゆるものが乱雑に積み上げられている。まるで一つの生態系のようだった。部屋は歪な形をしていて、どこまで続いているのか、果ては見えない。
そこに、人影がひとつある。
あれは…女だろうか?
きみは声を出そうとして、思い留まる。
彼女はまるでなにかに追い立てられるように、一心不乱に何かをしていた。何かを作っているのかダンスをしているのか、ここからだとよく見えない。もしかしたら何かを描いているのかもしれなかった。とにかくそこに鬼気迫るものを感じ、きみは喉を鳴らす。
そして、
彼女は唐突に、変身した。
きみは鍵穴を食い入るように覗く。
彼女は、凛々しいヒョウの姿になっていて、唸り声をあげながら、壁を引き裂いている。部屋を優雅に歩く彼女の身体は男性的なしなやかさに満ちていて、黒々と引き締まった力強い曲線は言いようもなくエロティックだった。
なんて美しいんだ。きみはたまらなく興奮する。身体が熱い。こんなものがあったなんて。こんなひとがいたなんて。
羨ましい、ときみは心の底から思う。俺も、彼女と同じようになりたい。底から昇って来る欲動に身体が呑み込まれる。心臓がみるみる速くなっていく。喉の奥にいまだ表現されない怪物の胎動を感じる。身体が一度もしたことのない動きをしたがっている。熱い。熱い。熱い。外からエネルギーが流れ込んでいるようだった。
ゆっくりと、きみは裂けていく。
きみは部屋にひろがっていき、部屋の闇はきみの中に入っていく。
きみは深く深く目を瞑る。
水中に潜るように。
身体は均質になっていき、重く重く海に沈むようだった。
それにつれ、きみは自由になっていく。
ウウウウウウーーーーーーーーーーーーー。
くぐもったサイレンの音が遠くで聞こえる。危機感を掻き立てる嫌な音だ。それは、異界への境界を告げる境界の警告でもあった。
きみは部屋の黒の中で、解き放たれる。
例えば、きみはツバメだった。
きみは家々の間すれすれを光速で抜けていく。スリルと興奮。なんて気持ちいい風だ。身体が軽く、スピードを上げていくたび風が頬を鋭く叩いていく。
そろそろ抜けるぞ!家々の隙間から音を立てて飛び出したきみは、円弧を描いてぐんぐん上昇していく。
見下ろす街は、飛び回る空間は、もう俺のものだった。きみは、空間を手中に収める開放感に酔う。
例えば、きみは馬だった。
きみは、草原を力の限り駆け抜けてゆく。身体が熱い。きみは息を切らして走る。走る。
走ることは生の充実であり、生の歓びだった。もっと速く。もっと自由に。
筋肉がうねり、たてがみはなびき、その速度に、力に悦んでいるようだった。きみは、火花を散らす生命の躍動に興奮する。
例えば、きみは魚だった。
きみは、群れを離れて海藻と戯れている。波にゆらゆらと揺られている。
すると突如、きみの頭上に大きな影が出没する。なんだ、あれは?
それは雄大なクジラだった。すごい。きみはその巨躯に畏敬を抱く。
悠然と昏い海を渡るそれは、世界を統べているかのような風格を備えていた。きみは、自分を超えたものを目の当たりにし、驚嘆する。
そうやって、きみはすべてを見る。ツバメが虫を喰らう。鹿の群れが音を立てながら森を抜けてゆく。馬が草を揺らす。獣が獲物の横腹に牙を立てる。魚が海流に揺られてゆく。生命を失ったクジラがゆっくりと、しかし確実に深海へ呑み込まれていく。
きみは知る。
そこでは、すべてがそうあるように流れてゆくことを。
そこでは、生は死であり、善は悪であり、自は他であり、矛盾は整合であることを。
動物たちはただ喰らい、ただ死に、ただ走り、ただ揺られているのだ。それが全てだった。大いなる胎動。
それは、全部、カミの現れだった。
そして最後。きみは人間になる。
気づけばきみは、はじめにいた河に立っていた。水の冷たさ。滝の振動。葉の擦れる音。さっきまでの全部が嘘みたいに、森は素知らぬ顔をして静かに揺れている。
ただ、何かが違って見える。
きみはそこでようやく、鳥の言葉の意味を悟る。
「お前は嘘をついているからね」
なるほどな、ときみは思う。
俺も、けものだったのだ。すでに。いつも。俺だって、ここに含まれていたのだった。
あの胎動の一つなんだ。俺だって。
それなら、ときみは思う。
俺は、一体何を見ないことにしてきた?
俺が未だに気づけていないことはなんだ?
きみは何度も自問する。明確だと思っていた土台が崩れ、きみは方向喪失を感じる。
「お前はようやく入り口に立ったんだ」
気付くと、きみの肩に黒い鳥が止まっている。鳥はきみの首を回り込み、同心円の目で覗いてくる。こわい。
きみはようやく気づく。
・・・・・・・・・・・・・
この鳥は喋ってなんかいない。
それは、反射しているだったのだ。何を?俺のすべてを。
なんだそりゃ。俺ははじめから知ってたのかよ。きみは笑い出したくなる。青い鳥の童話じゃねえんだぞ。
「ここから先はお前ひとりの問題だ。心配することはない、お察しの通りお前の頭以外はもう知っているのだからな」
鳥はニヤニヤしている、ように見える。
「ただ、一つだけ言っておこう。やつに捕まるなよ」
「やつは危険だ。きみの目を眩ませ、きみの座標を忘れさせてしまう。それさえなければ、あとは自ずからうまく行くものなのさ。……お前の頭が邪魔しなければね」
鳥は顔を彼方に向け、大きく羽ばたいて飛んでいってしまった。みるみる姿が小さくなり、木々の間に消える。ああ、行ってしまった。しばらくきみはぼんやりとそちらを見ている。
鳥の言うことは半分も分からなかった。しかし、なにかとても重要な話をしているということだけは分かる。
きみは思う。まだ俺に準備が出来ていないだけなのだ。望もうが望むまいが、いずれ分かるときが来る。
きみの足にコツンと当たるものがあった。水流に揺蕩い、輝いている。
拾い上げてみると、それは白に輝く耳飾りだった。直方体の形をした石が多面に削られていて、光を乱反射している。
きれいだ、ときみは思う。今は耳に穴を開けていないからつけられないが、いずれ必然的につけることになるだろう。なぜだかそう思った。耳飾りを手に握りしめる。
きみは岸辺に腰を下ろし、河の流れをぼんやりと見ている。自分の体験したことを、整理しようと試みているのだ。
俺は、何か目的があってここへ来たはずだった。
わけのわからないことがたくさん起きて、得られたものといえば耳飾り一つだけだった。
一体何だったんだ?きみは耳飾りを陽にかざす。多面に光る、白い石。おそらく、これが、これからのわたしの標になるだろう。なぜだか分からないが、きみは確かにそう感じる。
きみは顔を上げ森を眺め、滝を眺める。あの胎動は、すべてが生きているあの胎動は、確かにここにも生きている。もちろん私にだって。
この空間に自分も含まれているということ。そのことについてきみは少し考えてみる。
心地よい風がひとつ、きみをすり抜けてゆく。そろそろ行くか。
きみは腰を上げ、草の感触を感じながらと歩き出す。気持ちいい。
この木々を抜けた先にも、地続きの土がある。そのことを、きみは知っている。