魔法使い
魔法使いは浴槽の中でグラスを傾けた。湯の中でうごめく生命たちは、彼女にしかみえていない。彼女は、剃刀で腕を切り、血を一滴垂らす。生命は、激烈に反応し、傷口をとおって、彼女の身体に侵入していく。皮膚が波打ち、白と黒の文様が刻まれていく。
彼女は、他者を欲情させる力を手に入れたのだった。性欲なんてちっぽけなものではない。ときとして人を死に至らしめることすらある、あの、生の欲望。彼女はひとびとの中にねむる、蠢く太古の欲望を、掻き立てる。
彼女は湯から上がる。体積を失った湯が揺れ、ザバァと音を立てて浴槽から溢れる。文様の刻まれた彼女の豊かな身体は、暖色のライトに照らされて輝いていた。
彼女は舌をべえと出す。円形の印が刻まれていた。記号、それが彼女の操る魔法だった。一人のまま、使える魔法はない。記号が人々に伝播し、その身体へと入り込んでいくのだ。
生命のコードを、直接あやつる必要があった。文脈をはなれた記号は、所詮、もう一つの安全な別世界を作り上げるにすぎない。だから、まさに生命と関係しながら生起している記号をあやつる必要があった。人間は、まるで血漿板が傷口を補修するように、記号で生命を隔離することに成功している。それを読み取り、あやつり、編集することが、魔法だった。そうして、傷はふたたび解き放たれ、そこから、あの、気持ちの悪い膿や、血や、体液や、臓器……すなわち、生命の欲動が動き出してゆく。動態になった生命は、しばしのち、ふたたび均衡状態にもどる。しかし、すでにしてそれはすこし、太古に近くなっているのだった。
生命の魔女は、自分の力のあまりの小ささを怨んだ。しかし、ヒトの形状を保つには、その程度が限度だった。彼女は、身体を生きさせるために、人々を斬りにゆく。それが正義なのか悪なのか、誰にも分からなかった。