OMORIに触発された物語

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黒が必要だ。
深い、黒。それは深海。
階層、深層、そして、水の中を泳ぐものたち

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カナは目を覚ます。
立ち上がってみる、あたりは暗い。水辺のようだ。くるぶしまで浸かるぬるい水。少し近くには岸辺がある。その上に靴が二足。
あれはなんだろう、少し考えて思い至る。

あれは私の靴だ。

私はもうこちらに来てしまった。
来てしまったのだ。もう戻れない。
息を吸う。カナは、水をかき分けて黒を深く進んでゆく。それは、途切れる。

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暗い、暗い水の中にいる。体温に近い温度で、流れはない。大きな胎内に似た静寂を揺蕩うだけ。
光はないが、からだの輪郭がぼんやりと見える。死んでしまったんだろうか。思考にならない思考が溶け出していく。

優しくしかし大いなる力で、水にからだをゆさぶられている。不思議と、それが心地よかった。
遠くから、クジラのような啼き声が聞こえてくる。広大な、広大な海のあらゆるところに反射して、響きそのものだけが伝わってくる。厳粛で、神聖な声。それを聞くことで、海の果てしなさが一層強く感じられた。

カナは、不思議と孤独は感じなかった。わたしは一人だが、一人ではない。この世界は外であり、内であった。クジラのような声はわたしを包む声であり、わたしの声でもあるのかもしれなかった。

不意に小さい魚がカナの目の前に現れる。泳いでいくそれをぼんやりと見ていると、

現れた。

果てしない大きさを持つ生物。足がすくんでしまうほどの存在感。それ、それが私の足元をゆったりと渡っていく。全容は闇に包まれ定かではない。わたしなどもろともしないその存在に畏怖を感じるとともに、カナは不思議と胸が高鳴るのを感じた。わたしは、それに敵わない。どうあがいても。そんな存在がいるのだ。ここに。この海の中に。それは、福音であった。わたしをはるかに超えるものが棲んでいる。そうある限り、わたしは、生きていける、そう思った。

カナは目を瞑る。身体の力をつま先からこわばらせていき、一気に抜く。体の浮力を感じる。水と一緒になる。思考が曖昧になり、手足の感覚が薄れ、意識が海に沈んでいき、

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水辺に立っている。カナは、水辺に立っていた。海中にいたはずなのに、不思議と濡れているのはいま浸かっている足だけだった。岸辺に腰掛け、カナはいま見てきた光景のことを思った。この下には、遥かなるものが眠っている。それは恐ろしく、そして甘美な体験であった。カナは波紋をぼんやり見つめる。足を揺らして飛んでいく水の粒を眺める。

そうしていると、一羽の鳥が飛んできた。
白く、ツルのようにからだの長い鳥だ。近くに降り立ち、毛づくろいをしたり水中をくちばしでつついたりしている。それを眺めていると、鳥はこちらを見て、

話しかけられた。
「本当は分かっているのだろう」

すべてを、見透かされたような気がした。なぜそう思ったのかはうまく説明できない。私が必死に自分についていた嘘を、論理を、説明を、すべて透過されたような居心地の悪さがあった。
「どういう意味」
苦し紛れに返す。胃の下が、底が抜けるように痛む。全身に冷や汗をかくのが分かる。私の中に入ってくる。入ってくる。しかし、自分の返答が、すでに肯定を意味していることをどこかで自覚していた。

「君は、君の思っているような人間じゃないんだ」
鳥は歌うように続ける。優雅に毛づくろいをしながら。それに無性に腹が立った。やめろ。やめろ。
「本当は気づいてるんでしょう?」
鳥が私の目を見る。ダメだ、と思った。ダメだ、逃れられない。これは、ダメだ。攻撃性にも似た恐怖に襲われる。穏やかに話しかけられているだけなのに、鋭い動物に睨まれているようだった。誤魔化せない。

「いや、」そう喉まで出かかって、否、と思った。ここで認めてしまえたら。ここで、壊してしまえたら。変わるかもしれない。痛いけれど、怖いけれど、変わるのかもしれない。声は震え、喉が乾く。何かを絞り出すように、口を開く。「…そう、なんだ」
鳥の顔なんて見られなかった。まるで車酔いで吐きそうな人のように、うつむき、吐き出す。自分が何を喋っているのかすら分からない。そうだ、そうだよ。私は、怖い、怖い、怖いんだ。自分が傲慢な人間であること、いいものを作れないこと、あるべき姿でないこと、私の望みが無謀であること、自分の選択を否定されること、自分のしたいようにしたいこと、人からの指図を受けたくないこと、喋りたい内容が全然共感してもらえないこと、友達を作る気にならないこと、これでいいのかな、これでいいのかな、わたしは、わたしは、人に否定されたら、もろく崩れてしまう。わたしの服はかっこいい?髪型は変じゃない?デザインってどうなの?ねえ、私の欲望ってやりすぎかな?私の選択って傲慢?人の話を聞くときって目を見ないのってだめなんだっけ?なにかされたときありがとうって言わないとだめなんだっけ?怒られたとき、それ自体に不満を示していいんだっけ?わからないんだ、わからないんだ、自分の悩みがあまりに愚かに思えて。誰にも言えない、誰にも言えないよ。こんな馬鹿なことで悩んでいるなんて。私は、私は赦しが欲しかった。これでいいんだよ、って。わたしがしたいこととしたくないことは自分で決めていいの?決めたものに自信を持っていいの?誰か、誰か、でも、人の目にそれを晒すのはあまりにも耐えがたかったんだ。ねえ、どうすればいいの?わたしは、どうすればいいの?

鳥は、目を閉じている。片足で、水面に立っている。鳥の周りは、ほんの少しだけ空気の手触りが違うような気がした。
私がまとまらないことを吐き出し終えると、鳥は、少し黙った。その空白は永遠に思えた。ああ、と思う。すべてを晒してしまった。一言、一言でも批判がくればわたしは粉々になってしまうだろう。
鳥が口を開く。
殴られたような衝撃があった。
「お前はどうしたい?」

どうしたい、どうしたい、どうしたい、言葉が空回りする。そんなこと、考えたことがなかった。私は、私は、この私で、生きていきたかった、いや、私はまさにこの私を否定したかったのだ、みんなから認められる、ただしい私に、あれ、
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私を否定していたのは、私?

鳥が飛び立った、と思った刹那、水辺の水が轟音を立てて持ち上がる。周りの森がざわめき、一斉に鳥の群れが飛び立った。黒が支配していた空がキャンバスのような白に代わる。哭慟する水の主は、かのクジラであった。噴水のように水を纏って、巨体がスローモーションで天を衝く。なんて美しい光景だ、岸の上、芝を踏みしめながら、口を開けてその様子を見る。永遠にこれが続けばいい、と思った。

天に舞ったクジラはゆっくりと下降に転じ、さらに永遠とも思える時間をかけて、今、着水する、
それと同時に、この世のものとは思えない轟音と水の暴発が起きる。私に襲いかかってくる水の塊を真正面から受け止める。衝撃で、全てが白になる。

すべてがおさまり、静けさが戻ってきた。全身が髪から下着まで濡れきっている。体には着水の衝撃が残響していた。
これで、何かが終わった、とカナは思った。私の体にあったなにかが、今の衝撃で飛んでいってしまった。やれやれ、と思う。さあ、帰ろうか。今日の夕飯は何にしよう。まず服を洗濯に回さないとな。カナは同じくビショビショになった靴を拾い上げ、水たまりのような芝を振り返る。そして、おや、と真っ白な鹿が立っているのをみつける。

その鹿は、美しい毛並みをしていた。全身を少しずつグラデーションを描く白い毛が包み、角はペールホワイト、目は真紅に染まっている。綺麗だ。カナが見とれていると、その鹿は何かを咥えて近付いてきた。手を出すよう促される。従うと、鹿はそれを手の上に器用に置いた。それは、真鍮でできた耳飾りであった。深い質感の光沢。カナは気に入った。

そしていま。カナはその耳飾りを右耳に揺らしながら、線路の上を歩いている。慎重に重心を調整して、落ちないように。一歩ずつ丁寧に、それでいて軽やかに。足元から幽かに振動が伝わってくる。列車が来るのはもうすぐだ。