翔ぶ物語

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きみはつばめだ。
魚の背に包丁を入れる職人のように、きみは、丁寧に、そして強く、確実に、夜明け前の景色へ切れ込みを入れる。
きみはかつてないほどの充実感を感じる。背を向け合う家々の間を音を響かせて飛び抜ける。ボブスレーをしているような気分だ。
いつ壁にあたってもおかしくないこの緊張感が、いのちの証拠かもしれなかった。勝利を示すように、きみは大きく、大きく翼をはたいて空に踊り出る。広大な夜の空間に、まちの群れが丸まって眠りこんでいるこの光景が、きみは好きだった。

自分とまちを隔てるこの圧倒的な空間は、何よりも美しいものだときみは思った。
やや距離を取りながら、まちの上を旋回する。すでに日が姿を見せ始めていた。こうして夜が開ける瞬間は、何度見ても気持ちがいい。この瞬間、昨日のわたしがリセットされるのを君は感じる。気分の揺れ動き、心に影を落としていたこと、焦り、不安、それが1ページ分現実味を失い、わたしは新たなわたしになるのだった。

高らかに、夜明けの歌を歌う。歌といっても、それは起床を知らせるラッパに近いものだった。ふいに勢いをつけ、はやる気持ちのままぐんぐんと上昇していく。空気がどんどん冷たくなっていって、頭がきりとした。風がつよい。力をふっと抜き、下を見下ろす。私とまちを隔てる空間は莫大な大きさだ。この広大な資源をを私がひとり自由に使えるのだ。きみはこの上なく愉快な気分だ。

興が乗った。勢いをつけて下降してみる。風がわたしをなだめようとするのをもろともせず、スピードを上げる。非現実的な小ささだったまちが立体感を増す様は、おもちゃの家がリアルになっていくようで、滑稽だった。ぐんぐん近づき、家が迫力を増した、その瞬間、優雅で力強い曲線を描いてターンする。後ろに飛行機雲ができているかもしれない、と夢想する。

余力でするすると低空飛行していると、人の乗っていない自転車がひとりでにゆるゆると歩んでいるのを見る。まだ紺が支配する、閑静な道を、おそらくは公園目指して。
おいおい、とつばめは思う。あの公園にはおもしろいものなんてなにもないぜ。
自転車の目指しているであろう公園には、慎ましやかなグラウンドと、申し訳なさそうに佇むブランコ、滑り台しかなかった。彼が一人で立ち寄ったとして、愉快な場所とは思えない。

「なあ、どこへ行くんだい?」
見かねて、つばめは声をかける。
「ああ、公園に行こうと思ってね」
やっぱりか、とつばめは思う。
「公園に行ってどうする?そう楽しいところでもあるまいに」
ところが、意外にも自転車は、清々しい声で答えた。
「だからさ」
「何もないところだから、行く価値があるんだ」
つばめは面食らった。
「それは…」
「本当は、キミもわかっているのだろう?」
予想外の返答だった。つばめは動揺したまま、曖昧に礼を言って飛び去った。

いま、つばめは電柱に腰掛けている。ぼんやりと、ねこがあくびをするのを眺めている。
あのじいさんが言っていたことは分からなかった。しかしおそらく重要なことだろう、とつばめは思った。
悪くない。分からないことがあるなら、まだ人生に見切りをつけるのには早いな。つばめは、なにか、あの言葉がこれから生きる意味を示しているような気がした。

それからつばめは、ねこを眺めていた。日が暮れ、ねこが自分の居場所に帰る、その時まで。