きみはこちらを見ている。
穏やかな微笑み。
夏の夕暮れ、川辺には熱気と湿気が名残惜しそうに留まっている。オレンジと青の消えゆくような空の光を受け、きみは、
こちらを見ている。
言わなければ。スカートを強く握る。手には汗。自分を囲む熱気が一層強くなったように感じる。
きみの切れ長の目は優しく細められていた。悲しげにも慈しげにも見える顔。何も言わなくても、もう全部分かっているみたいだった。
それでも、言わなければ。自分のためにも。川に体を向け、わたしは言葉を置いていくように、喋りだす。
「わたしは」
「これまでね、自分の半分を見ないことにしてたんだ」
「その真空はわたしをどうしようもなく不安にさせて、方向を見失わせて、それで、よりかかるものが必要だった、」
「それがあなただった、」
「あなたのことは今でも好きだよ、ほんとうに、」
「でも、もう、気づいたの」
「この半分も、自分なんだって、この、嫉妬して、欲深くて、傲慢で、冷酷で、こだわりが強くて、自己中心的で、悲しんで、恥じて、舞い上がって、恋して、傷ついて、そういうしょうもない自分も、自分なんだって」
「ありきたりな話だけどね」
涙がこぼれてくる。
「ほんとう、で、ありたい、って、思ってる、のに、」
「自分を信じるかわりに、それで、それだけであるかわりに、あなたをよりどころにしてたの」
彼女は以前言った。「きみは自分が嫌いなの?」そうだった。嫌悪じゃない。見ないことにしていたのだ。抑圧。抹殺。無視。
「でも、ごめんね、わたしは、ほんとうでいたいから、あなたほどかっこよくもスマートでも超然としてもいないけど、ほんとうで、ほんとうであるにはこうするしかないから」
本当にこれでいいのかわからない。それは、あまりにも頼りなくて、不格好で、ぜんぜんきみみたいじゃなかった。
きみに向き直る。涙で前が見えない。きみは相変わらず穏やかな笑みをたたえている。
「だから、ごめん」
言わなきゃ。
「ここで、お別れしよう」
鼓動が一段とはやくなる。世界に張り詰めていた糸が切れてしまった、秩序が揺れた、
言葉を継ぐ。
「もしかしたら、自分で歩いた先にあなたとまた会えるのかもしれない」
「その時は、ぴったり、同じものとして。対等で、地に足がついていて、ほんとうのものとして。」
「そのためにも、今は、お別れしよう」
「わたしは、一人で行くよ」
ああ、言ってしまった。怖い。怖い。よりかかるものがなくなる。矢面に立つのだ。
彼女は変わらず穏やかな笑みを浮かべている。目に悲しみが浮かんで見えるのは気のせいだろうか。
彼女が口を開く。
「…言いたいことは全部言えた?」
わたしはうなずく。ああ、もう、終わりなんだ、
彼女がこちらに近づいてくる。心臓が跳ねる。体が熱くなる。触れそうな距離。そのままー
抱きしめられた。頭が真っ白になる。首に、背中に、腕に、彼女の温度を感じる。吐息を感じる。それは、深い海に包まれているようだった。しばしのち、こちらも深く、深く抱き返す。涙で頭がぼんやりとする。
「頑張ったね」
予想外の言葉だった。
「よく頑張った」
深く、深く抱きしめながら彼女はいう。声色は深い海のような安らぎに満ちていた。
しばしして緩やかに腕がほどかれ、相対する。顔が近い。ドキドキする。慈愛に満ちた表情がこちらを見据える。目が潤いをたたえている。
「覚えておいて」
「アタシは、いつでも、キミの中にいるんだ」
「気づいていないときでもね」
「だから、キミは、キミの自然を生きればいい」
「愛してるよ」
最後に一度だけ抱く。強く。強く。
またね、と聞こえた気がした。
そこには、残暑にざわめく空間のみが残っている。
消えたのではない、わたしは思う。
・・・・・・・・
一緒になったのだ。
ひとつに、大きな渦に、自然に、なったのだ。
もう、偶像ではなくなっただけだ。
ほう、と息をついて川を眺める。
川は熱気をものともせずゆったりと流れていた。
空白。
寂しいよ、きみの占めていた空間が、空になってしまった。
葉っぱが川をけだるげに流れていく。
でも、と思う。ここをわたしが埋めていくんだろう、ここを土台にするんだ。始まりなんだ。怖いけどね。
すべてのわたしをみること。
その上で、築いていくこと。
心細かった。頼りなかった。でも、その先に、やはり彼女はいるのだ。きっと。
いずれにせよ、それだけだ、それだけだった。
川を眺めている。サギがゆったりと歩いているところを眺めている。
立ち上がるまで。