ある白い部屋の物語

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鏡。鏡。鏡。鏡。鏡。鏡。鏡。鏡。鏡。
あなたは、立っている、鏡、鏡の前に、立っている、あなたは吐き気を覚える、
鏡は、あなたを映す、あなたが見ないようにしていたものを、あなたが想像によって守っていたものを、
あなたは膝をつく、下を向いて鏡が目に入らないように、しかし、破れる。皮膚が破れる、

絶叫、

あなたは、吐き出す、大量の魚、強迫的な、うねる線がびっしり刻まれた大量の魚を、
あなたは嗚咽する、気づけばあたりは水の中で、あなたの喉にまとわりつきながら出てきた魚たちは泳ぎだす、5匹、6匹、7匹、8匹、

すべて吐き出した。吐き出したかのように思えた。喉にはまだ圧迫感と粘性の液が残存している。気づけばあたりはすっかり水が抜けていた。魚が大量に床に横たわっていて、濡れた床と生臭い匂い、そしてところどころ赤い血溜まりがあり極めて不愉快だった。
魚を蹴飛ばしながら歩く。生暖かさと弾力と足に伝わる重みが、それがたしかに生命であることを感じさせた。足に魚の温もりが移り、気持ち悪い。

魚を拾い上げてみよう、と思った。真っ白で、出口のないこの部屋では他にやることがない。鏡は、見たくなかった。
手ごろなサイズのものを探す。しゃがんで尾をつまむと、びくん、と魚は跳ねた。いのち。いのちの、気持ち悪さだ。重みと、温かさと、匂いと、液と、血と、肉。それは、内蔵。それは、肉体。

声が響くーそれときみはどう違うの、
違わない、違わなかった、それは、わたしであり、またあなただった。気持ち悪さ。いのちの、動物の、人間の、
魚を手に持つ。

やらなければ

自分の底から湧き上がってくる赤黒い攻撃性に酔い、あるいは驚き、あるいは悲嘆しながら、力を込める。
両手で、指を食い込ませ、外に開く、もっと力を込める、もっと、もっと、もっと、
ぴり、
裂けた。皮が裂けて、中身が見える。粘性の液体のように不透明で、怒りを湛えたような赤黒さだ。もっと、もっと、
抑えられない。自分が攻撃しているのか、それとも私が脅かされているのか、分からない。やらなきゃいけない。とにかく、やらなければ。

赤黒い範囲はどんどんひろがっていく。液が溢れる。手が赤黒く染まる。床にまで溢れていく。骨が見えている。骨が見えている。やらなければ。やらなければ。こわい。こわい。こわい。
ほとんど祈るように、祈るように、力を込めて、

肉片に裂いた、瞬間、
わたしの肉が裂ける。
顔の肉が、目が、拠り所を失って浮遊していく、気づけばあたりは赤黒い液に埋まっている、それでも不思議と辺りは見える。手が、足が、皮膚が、裂けて、中途半端につながって、いくつかの肉片に裂けていく、裂けていく、腕を見る、まるで肉片の寄せ集めのようになった腕から、赤黒いものが覗いていた、ああ、そうか、そうか、わたしもか、
いや、
わたしだったのだ、なにもかも、

意識が途切れる。

 

 

赤黒い化け物が足を引きずっている。
なんだあれは?かろうじて人型を保っている、なんだあれは、なぜあれが街の中を歩いていて、誰も不審に思わない?

赤黒い化け物は、留まるところを知らず、すべての場所で自分が優遇され、勝り、尊敬されないと気がすまないようだった。善良なふりをして、目の奥では雄弁に黒い火が身を焦がしていた。遠慮がちな姿勢、友好的な態度、それらは、自分がいいひとのままで全てに勝るための計略だった。
なんだ、あれは?なぜ誰も気が付かない?あるいは気がついているのかもしれなかった。

赤黒い化け物は、異常に偏った好みを持っている。会うひと、選ぶもの、作るもの、ほとんどのものは「それ」の気にいらないものだった。とんでもない偏屈さ。しかし、「それ」はあたかも自分がそれらに興味があるように振る舞い、自分ですら騙されているのだった。
なんだ、あれは?なんて愚かしく、哀れな生き物だろう?

赤黒い化け物は、周りにどう見られるかに異常にこだわった。自分の住処で鏡をまじまじと見、声の出し方を確かめ、会話を想像した。しかし、それは「それ」の想像のなかの話だった。実際の現実で相手を困らせようと、「それ」は一向に気に介さないようだった。「それ」のイメージに合っているかどうかだけが問題だったのだ。
なんだ、あれは?なんて自己中心的で、傲慢で、それでいて盲目的な生き物だろう?

赤黒い化け物は、とんでもなく偏った信念を持っていた。他人から与えられた行動をするなどもってのほかで、自分がとことん論理的に納得しない限り、怒りに悶えるのだった。それでいて、「それ」は自分を抑えた。納得できない自分の怒りの炎に身を焦がし、それを感じなかったことにして身を守ることを覚えたのだった。「それ」はにこやかに振る舞った。しかし、やはり黒い灰は降り積もり、燃え上がると「それ」の身を焼くのだった。
なんだ、あれは?なんて攻撃的で、理屈っぽくて、ひねくれて、それでいて弱い生き物だろう?

赤黒い化け物は、自分の弱みを絶対に人に見せなかった。自分が暴かれそうになるとー深い相談や、品定めの場や、忌憚のない意見ーその場から逃げ出し、自慰的な空想の世界に逃げ帰るのだった。

赤黒い化け物は、嫉妬深く、すぐ不安になった。仲間が楽しむことは自分を除け者にすることで、誰かが仲良くしていることは自分はいらないということだった。それでいて、自分からは言い出さず、よりそれらを避けることで復讐しようとするのだった。

赤黒い化け物は、無責任で、自分勝手な論理を使って集団を逃れるのだった。「それ」は誰かのやる義務を見てみぬふりし、あるいは論理をずらして逃げるのだった。引き受けることがあってもそれは自分が責められることや空白の時間を恐れてのことで、ほんとうに対話することはないのだった。

こうして、赤黒い化け物は、自分を恥じた。自然を、自分の感覚を、偏りを、譲れないものを、あるいは弱さを、醜さを、怒りを、嫉妬を、要求を、からだの奥深く、深く、深く、深くに「なかったこと」にしたのだった。
いつしか、赤黒い化け物は、それがあったことを忘れる。世界ははじめから窮屈で、不安定で、先行きの見失われたもので、自分は善良で、極めて平凡な、つまらない存在になったのだった。
赤黒い化け物は、声を聞く。

本当は分かっているのだろう?

それが、何を意味するのか、赤黒い化け物はまだ知らない。

 

 

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白い部屋。清潔な、赤い血。魚の死骸。
ひとつの、骨格標本が吊るされている。
この部屋が、この部屋がだれかにみつかったら。みつけてくれたら、
引き裂かれたあとに、
生まれなおせるのかもしれなかった、